喘息闘病記

【1991年・咳の始まり】
 私は1984年に大学を卒業し、横浜で2年半、旭川で5年間勤務していました。
1991年10月に浜頓別で開業して、すぐにひどい咳に悩まされるようになりました。
仕事で使う有機溶剤で咳き込むことがあるので、これが気道を刺激するのだろうと思いました。有機溶剤は、入れ歯の修理や仮歯を作るときに使用するアクリル樹脂のモノマーや、虫歯の充填に使うコンポジットレジンの前処理剤の溶剤に使用されるアセトンなどです。だから使わないわけにはいかないし、小さな分子でマスクは素通りするので我慢するしかありません。咳をしながら仕事をすると、患者さんは気になるでしょう。実際あるとき患者さんから「風邪をひいてしまったんですよね。この前、先生、咳してましたよね」と、まるで私から風邪を移されたと言わんばかりに言われたこともありました。それは説明すれば済むことですが、咳き込んで辛いので、なんとか咳を止めたいと思い、リン酸コデイン等の中枢性鎮咳薬を飲んでみましたが、全く効きません。西洋薬だけでなく、漢方薬もいろいろ試してみましたが、ほとんど効きませんでした。よく使用される麦門冬湯や麻杏甘石湯、小青竜湯は全く効かず、滋陰降火湯と桂枝加厚朴杏仁湯が、わずかに効いただけでした。咳以外に症状はなく、当時は喘息だという認識はなかったのですが、このときから喘息だったのかもわかりません。私は自覚は全くなかったのですが、小学生のときに親(父親が医師)から蓄膿症だと言われ、中学生のときに塩化リゾチームを長期服用したことがあるし、また、中学生の頃からハウスダスト等が原因のアレルギー鼻炎もありました。さらに、小学生の時から風邪をひくと1か月以上長く咳が残ることがしばしばありました。
そんなわけで子どもの時から喘息の素地があったのかも知れません。いや、すでに喘息が始まっていたのかもわかりません。
 内服薬がほとんど効かないので、のど飴で咳を抑えました。特にぺラックスイートというエフェドリンなどが入ってる医薬品の咳止めトローチは良く効きました。ただし、良く効いているのはトローチが口の中にある時だけです。運悪く喫煙者の患者さんの治療中にトローチが溶けてなくなると急に咳き込んでしまい、慌てて一旦治療を中断してトローチを口にいれて、また治療を始めるということもしょっちゅうありました。香水や化粧品、整髪料を付けている患者さんにも激しく反応しました。自家用車に積んでいる芳香剤が患者さんに付いてくるのでそれにも反応します。ちなみに、開業前の7年半の勤務医時代は咳に悩まされるなどということは全くありませんでした。開業と同時に患者さんが大勢来院され、超多忙だったという事情もありました。勤務医時代は横浜でも旭川でも、幸か不幸かとても患者さんが少なかったです。
咳が誘発されるのは、仕事以外でもタバコや野焼き等、煙には非常に敏感です。
バースデーケーキのローソクもダメです。
香水や整髪料、芳香剤、消毒用アルコール、塩素、オゾンなどの化学物質にも非常に敏感です。熱燗のアルコール蒸気にも反応し、熱燗が飲めないほどです。油性のサインペンでも咳が出るほど気道が過敏です。タバコ煙は紙に良く吸収され、そこから再放出されるため、患者さんからいただいた紙幣を入れる金庫からタバコ臭が発散するので夕方以降、金庫を住宅内に保管する場合は納戸などに置くようにしました。千円、5千円、1万円が硬貨になると助かるのにと思ったものです。

また、経理の書類が会計事務所から返送されると、書類がタバコ臭くなっていて激しく咳が出るので、返送後は1か月くらい車庫に置いてタバコ臭が抜けてから自室で保管するようにしました。
当時は郵便物でもタバコ臭いものがしばしば配達され、迅速にゴミ箱に入れたり、車庫に置いたりしたものです。一歩外へ出ると飲食店、金融機関、公共交通機関、ホテルなど、あらゆる場所がタバコ臭くて私には苦痛(咳の他、頭痛・肩こり・首こり、吐き気、目や喉の痛みなど)で、暮らし難い世の中でした。
そんなふうに、私にとってタバコはとても迷惑なものであり、1993年から禁煙医師連盟に参加して様々な反タバコ運動やタバコ病研究、禁煙サポート等の活動をしました。やがて禁煙医師連盟から分離するような形で禁煙学会が誕生し、さらにタバコフリー学会へも発展し、現在も組織的な活動を行っています。また、北海道の地元でも草の根運動を積極的に行い、2004年に仲間とともに大丸札幌店の飲食店全店を禁煙にしたのは全国の大丸8店舗中最初のことでした。特に問題がないと判断されたのかすぐに他の大丸7店舗も全面禁煙になりました。これが他の全国の商業施設の禁煙化に多少は貢献したのではないかと自負しています。2006年に新千歳空港の飲食店全店禁煙が実現できたのも画期的なことでした。当時、数十軒もの規模での同一建物内飲食店全店禁煙は、おそらく日本初だったでしょう。日本の空港で、喫煙所以外全面禁煙になったのは初めてでした。
地元の浜頓別では、校長以外の男性教職員が全員喫煙者ということもあって職員室が禁煙になってなかった浜頓別中学校を1993年に禁煙にしてもらいました。要望に訪れた際、校長から「良く来てくれました」と歓迎の言葉があったのですが、校長は禁煙にしたかったけど、外圧がなければ校長権限だけでは禁煙にできなかったようです。これらの活動を精力的に行った原動力は、自分自身が咳に悩んでいたことがとても大きいです。また、自分だけでなく、国民の多くの非喫煙者受動喫煙を強いられている現状を不条理に感じて改善したいという、いわば正義感からでした。ちなみに私は中学生のとき、当時の首相が田中角栄で、金権政治によって一部の政治家と大企業などが良い思いをして庶民が虐げられている現状を見せつけられて以来、社会のおかしなことを看過できない性格になっていました。

【1995年頃に漢方のど飴自作】
 何年たっても咳に悩まされるのは全く変わりません。咳止めのトローチは添加物などが気になることもあり、漢方のど飴を自作するようにしました。なんで思いついたかというと、漢方で有名な松田邦夫先生の講演で、風邪で喉が痛かったり咳が出るときは桔梗湯(エキス剤ならお湯で溶いて)を冷やして少しずつ口に含むようにすると良いし、また、アイスキューブにしても良いと聞いたのがきっかけです。ちなみに、桔梗湯は桔梗と甘草の2味で構成されていますが、甘草だけを使い、口腔粘膜の消炎にも応用できないかと思い、ツムラに甘草湯トローチを製品化してくれないかと話したところ、桔梗湯トローチを製品化していただけました。ただし、残念ながら今は製造中止になっています。
 せっかく桔梗湯トローチが製品化されたものの、ちょっと刺激があるし、麻黄などのエフォドリンを含む生薬も入れたいと思い、自分で作ることにしました。水あめの中に桔梗湯、麻杏甘石湯、参蘇飲、桂枝加厚朴杏仁湯などを入れて飴にしました。
これは効きました。ただし、やはり口に含んでいるときは効いたのですが、なくなると咳が出たもので、診療中はほとんど常時口に入れていました。

【咳喘息】
 この頃、日経メディカルや医事新報などで「咳喘息」という疾患が良く話題になっていました。喘息というと「喘鳴」「呼吸困難」「咳」が主症状として有名ですから(息切れや胸痛などもありますが、それはおいといて)咳だけが症状の私は喘息だとは思ってなかったので、きっと私の咳は咳喘息ではないかと思うようになりました。
浜頓別には呼吸器科の専門医もいないし、100㎞も離れた名寄などの病院を受診するのも大変だし、仕事が忙しいこともあって、自分でサルタノール(吸入β2刺激薬)などを取り寄せ、使用してみましたが、見事に全く効きません。咳だけだということで、またも自作漢方のど飴で咳をコントロールして我慢することにしました。
でも、なぜか電話での会話時に咳が激しく出るのです。そういう患者は滅多にいないようですが、ごく少数、同じ症状の人がいるそうです。本当に少数なので、専門医でも聞いたことがないドクターもいるらしいです。その珍現象(?)は、強弱の変化はあったものの、20年以上続きました。
電話が困難というのは、本当に辛いし不便でなりません。普通は電話をかけるような場合でも、FAXや手紙、あるいはメールを使うようにしました。でもその頃はまだインターネットが普及したばかりで、メールを使えない人も多かったです。

【転地療養と野焼き】
 釧路は喘息が多いそうです。その原因は霧や低温多湿にあるのではとの推測があります。実際は製紙工場の排煙が原因ではないかと今、私は推測しています。製紙工場がたくさんあり、かつてヘドロで有名になった富士市田子の浦でも喘息が多く、富士喘息と呼ばれる公害となっていました。王子製紙企業城下町である苫小牧でも喘息が多いそうです。(旭川の製紙工場はどうなのでしょう?) 
当時は気候が喘息に影響すると思い、浜頓別は釧路に似たような気候(海から湿った風が来る)ので、内陸に住めば咳は減るのではないかと期待をするようになりました。他の理由もあって、2008年に浜頓別を引き払い(診療所は居抜きで貸して)、旭川の旧宅に引っ越しました。(家族はすでに2002年に旭川の家に戻ってました)
すると、完全に咳が止まったわけではありませんが、かなり楽になりました。
しかし、旭川では医院経営などの問題もあり、1年半で良い話があった士別市に再移転をしました。士別市でも最初の数か月はさほど咳はなかったのですが、やがて再び咳に悩まされるにようになりました。
士別は農業地帯で野焼きが多く、秋には市街地もしばしば濃い野焼きの煙で覆われるほどであるのが咳の大きな原因ではないかと思いました。実際、咳がひどくなったのは秋の野焼きのシーズンからでした。

【2011年・初めて専門医受診】
 士別移転の翌年の2011年の春(震災の数日前)、学会で東京に行っていたら、ある呼吸器科のドクターが私の咳に気づき「咳ひどいんだね。北海道に呼吸器科の良い先生(当時深川で勤務されていたM先生のこと)がいるだろう」と言われました。この一言で20年も放置(セルフ治療)していた重い腰を、初めて上げる決心をしました。M先生の診察を受け、「咳喘息でしょうか?」と尋ねたら、「1秒率が下がっているので咳喘息というより、喘息状態と言えると思います」ということでした。
喘鳴も呼吸困難もないのに、本当の喘息ではないかというのは、そのときは釈然としない気持ちになりましたが、きっとすでに正真正銘の喘息(気管支が狭窄している)だったのでしょう。それに、海外では咳喘息という概念はなく、日本で咳喘息と言われている病態は喘息の範疇に入るそうなので、どのみちすでに喘息だったのでしょう。
喘息には息切れの症状がありますが、その頃は意識してなかったのですが、いつも山菜を採りに行く山に登る際、1980年代は途中で休むことなく一気に坂を登ることができたのに、90年代以降はだんだん息切れするようになってましたが、歳のせいだと思ってました。また、高校時代は10㎞の距離を自転車で25分かかって通学してましたが、旭川で仕事していた2009年(50歳)のときは同じ10㎞の距離を自転車で35分もかかって、「歳のせいにしてはずいぶん時間かかるなあ。変だなぁ」と思っていましたが、きっとこの頃から喘息になっていたためだろうと今になって思います。
で、M先生にはシムビコートというステロイドと気管支拡張剤の合剤である吸入薬を処方していただきました。しかし、2か月間吸入したけど咳は全く減りません。
「これが効かないなら難しい」とM先生に言われ、途方にくれました。
効かなかった理由は以下の4つ考えられると思います。
1、吸入時にむせてしまって気管支まで薬剤が十分入らなかった
2、量が少なかった(1日2吸入しました)
3、私の体質がステロイドに反応が悪い
4、職業性喘息なので、仕事での気道刺激物質からの曝露がある限り治らない
結局、2か月シムビコートを吸入しただけで諦め、再びのど飴に頼る生活を続けることにしてしまいました。

【2012年・和寒へ移転】
 士別の診療所は借り物で家賃が高いし、雪かきの雪を捨てる場所が乏しくて除雪が大変なことなど、いろいろ問題を抱えていたところ、和寒町に良い物件(空きになった歯科医院)が格安で売りに出されていたので移転することにしました。3年半で3回目の移転ということで、目まぐるしく引っ越しを繰り返しましたが、もちろん咳が良くなるのも期待しての話でした。そんなわけで士別は2年で離れ、2012年7月から和寒で診療することにしました。
引っ越しの際にエアコンの掃除をきっかけにひどい咳が2か月くらい続いたものの、その後は比較的、咳は少なく、士別にいたときよりは調子が良かったです。患者が少なく仕事での刺激物質曝露が少なかったからかも知れません。しかし、和寒も士別と同じ農業地帯で、特に秋の野焼きのシーズンはひどいことになります。やがてまた咳に悩まされる日も出るようになりました。
あるとき、日経メディカルにシングレア(モンテルカスト)の広告があり、何となく効きそうな気がしたので取り寄せて服用してみたところ、ある程度効果がありました。
その後、調子が悪くなったときだけ服用するようにし、和寒で診療していた7年間は、浜頓別や士別にいたときほどは咳は多くなく、電話の際の咳は減っていたので電話会話時の辛さは、かなり減っていました。
和寒では旭川時代ほどではないものの、意外と患者数が少なく、医院経営は楽ではなかったのですが、患者が増えても咳が多くなるだろうと思い、売り上げ増を図るよりも経費の節約を努めて生活資金をなんとか捻出しました。和寒の土地・建物の購入資金は親類から借り、2年で完済して借金はなくなり、やがて娘は大学を卒業し、従業員は衛生士が1人だけだし、個人年金も出始めたので売り上げが少なくても、なんとかやっていけるようになりました。だから少ない患者でほそぼそとやり、咳はひどくなることはあまりなく、どうにか咳と付き合ってやっていました。しかし2017年の秋は咳が多くなりました。稲刈り後の稲わらを燃やす野焼きが大きな原因だろうと思います。毎年10月は野焼きが盛大に行われます。電話も辛いほどだったので、またシングレアを飲みました。そこで2018年の10月は、野焼きができない雨の日以外はできるだけ、野焼きがひどくなる午後は患者予約を入れず、野焼きがひどくなりそうだと風向きによって午後から旭川剣淵町の温泉などへ疎開するようにしました。
また、役場総務課や町長には野焼き対策をお願いしました。総務課も町長も「野焼きしないよう広報はしている」とは言いますが、広報するだけで、それ以上踏み込んだ対策は何ら取られていないので、何も対策とってないと同じです。農家を敵にしたくないのでしょう。選挙にも影響するでしょうし。そこで、2019年の秋は1か月くらい診療を休んで空気のきれいな所で過ごすことを考えていました。

【異変その1・息苦しさ】
 2017年8月に関西へ行きました。長居でセレッソコンサドーレの試合を見るのと、奈良で講演を行うためでした。
猛暑で37度の大阪に着くと、少し息苦しさを感じました。良く「ストローで息を吸う感じ」という表現をする通りの息苦しさでした。気温が高いと空気密度が下がるので当然という考えもありますが、その程度の密度の違いで息苦しくなるのだろうか、納得が行きません。気温が30度上昇しても、空気密度は10%低下するだけです。その程度で息苦しくなるのなら、飛行機に乗った方が遥かに強く起こるはずで、釈然としません。暑いと気管支が異常を起こすのだろうか?
さらに2019年8月2日に旭川で33.3度の猛暑になった時も同じような経験をし、いずれも軽度で苦痛というほどではありませんでしたが、不思議に思いました。
 
【異変その2・異常な眠気】
 2019年の春頃から、午後にやたら眠くなりました。仕事をしているのなら眠くなりませんが、患者さんが途切れて座ってパソコンを見ていたり本を読んでいると、とても眠くなり、しかも疲労感を伴っていたので横になって眠りたくなったものの、それでは怠けているように思われるので頑張って机に向かっていたんですが、そのまま眠ってしまうことがしばしばありました。そのときは病気だという認識はなく、「疲れがたまっているのだろうか? でも仕事は忙しくないのだし、歳のせいでこんなに眠くなるはずもないし、変だなぁ・・」と思っていたのですが、今になって思うと喘息の悪化が原因に違いありません。2019年9月に呼吸困難と激しい息切れが起こってから半年間は毎日午後に強い眠気、それも強い疲労感を伴った不快な眠気に襲われたもので、やはりその眠気は病的だったのでしょう。今でも良く昼寝をします。

【異変その3・狭心症を疑う】
 2019年8月 はじめ、早朝に畑に出ると胸痛がして、狭心症ではないかと思いました。胸痛は朝だけだったし、動脈硬化してない自信があったので、冠攣縮性狭心症ではないだろうかと思ったりもしました。
お盆中に和寒町立病院へ行き(病院はお盆休みなし)ホルターで24時間心電図をやっても全く異常なく、循環器専門病院へ行って、負荷試験などで詳しく検査することを勧められましたが、行きたくなくて、9月に入ってもう一度ホルターを実施してもらうことにしました。(同じ月に2回の実施は健康保険で認められないので)
さらにもう一つ、異変を感じました。9月8日に畑でネギを掘り起こそうとすると、強く息切れし、思うように作業が出来なかったのです。こんな事は初めてで、疲れているのだろうか? それともやはり心臓に異常があるのだろうか? 冠攣縮性狭心症ではなくて動脈硬化から狭心症が起こっているのか? などと不安が増しました。
知人で喘息治療の専門家のドクター(以下、A医師)にメールで相談すると、喘息が原因かも知れないとのことでしたが、しかし喘鳴も呼吸困難もないし、喘息から来ているとは考えませんでした。

【運命の日・2019年9月12日】
 2019年9月12日は、忘れられない日です。この日(木曜日)は午前中外来診療をし、午後は往診が一軒あり、15時前に帰院したのですが、帰院時に、かつて経験したことのない強い息切れが起こったのです。往診に使う重い器具を車から下ろして診療室まで運ぶのに、肩で息をする状態で、いったいどうしたのだろうかと思いました。そのあとの診療は外来が1名いただけで、診療を終えるとスタッフ(衛生士)に事情を説明し、自宅ベッドで横になって休みました。夜になると、今度は息苦しくなりました。これで今までの体調の異変の原因は、すぐさま理解できました。胸痛や息切れの原因は狭心症ではなく喘息だったと瞬時に確信しました。呼吸困難が起こったというのに、狭心症でないとわかって安堵しました。呼吸困難が起こって喜ぶ人なんか、そう滅多にいないでしょう (笑
そこで、8年ぶりにM先生に診ていただこうと思い、M先生の病院のウェブサイトで診療日を調べました。火曜と木曜が外来とのこと。介護施設もあるとはいえ、外来がたったの週2日だけというのは腑に落ちなかったのですが、そうなると受診できるのは5日後の火曜日になります。
翌日金曜日は2回目のホルターの結果を聞きに町立病院へ行きました。予想通りまたも心臓には異常なし。やはり循環器専門クリニックへ行くようにとのことだったので「実は昔から咳がひどく、喘息ではないかと言われていたのですが、昨晩から息苦しくなったので、きっと喘息が原因だと思うので、循環器科よりも先に呼吸器科に行こうと思います。差し当たってシムビコートを処方して下さい」とお願いしました。
ちなみに、ドクターにも薬剤師にも「猫飼ってませんか?」と聞かれました。そんなに猫は喘息を起こすのかと驚きました。
60年生きていて50年くらいは猫と一緒に暮らしていましたが、前年からはいません。
次にM先生にメールをして、4日後に受診したいと連絡しました。M先生は8年前は深川の病院で診療していましたが、今は旭川の病院なので近くなって便利です。
ところが、M先生が主に勤務するクリニックはスパイロメーターやCTなどの設備がなく、それらの設備がある系列の大きなクリニックで月・水・金の午前だけM先生が診察するとのこと。(それがわかっていたら今日の午前受診できたのに)
それなら来週火曜ではなく月曜に受診できると思いきや、タイミング悪く、来週月曜は祝日(敬老の日)なので、5日後の水曜日に受診することになりましたその間、シムビコートの吸入と、以前使って残っていたシングレアの内服で、5日間しのぐことにしました。(後者は即効性ありませんが) また、ステロイドの内服が良いとA医師から聞き、デカドロンがあったので、金曜日から5日間、1日4㎎服用しました。あと、次女が以前、喘息で服用していた、気管支拡張剤のテオフィリンがあったので飲んでみましたが、手足がつるのと動悸の副作用が出たため少量服用しました。動悸はちょっと辛かったです。不眠やふらつきの副作用もあります。ひどくなった翌日に和寒から旭川まで運転し、翌々日にまた運転して和寒へ戻ったのですが、30分ちょっとの運転時間ですが、結構辛くて途中で休憩したほどでした。14日(土)は、札幌まで車を運転して厚別競技場でコンサドーレの試合を見て、さらに宮崎からお越しになるサポーター仲間と里塚霊園へ行って兄の墓参りをする予定でしたが中止しました。早くも15日には息苦しさは減りました。ただ、胸骨の下縁あたりが痛かったです。また、横になって休みたくなるようなだるさが強かったです。

【M先生の診察・2019年9月18日】
 ひどくなって6日後に待望のM先生に診ていただき、肺のレントゲンは全く異常がなく、スパイロメーターでは1秒率などが下がっているので、気管支喘息で間違いないでしょうとのことでした。吸入薬のシムビコートとステロイドプレドニン1日20㎎内服)を処方していただきました。

【仕事の始末】 
 仕事に関しては季節的要因もあって、患者さんが少なかったのはラッキーでした。
 ひどくなった日以降、新患はお断りし、翌日だけは予約してあった患者さんを頑張って診療し、翌週からは抜糸だけの簡単な治療の患者さん2名のみ行い、他の患者さんは2週間後と3週間後に知人のドクターに頼んで治療を終わらせました。幸いなことに前年に休業補償保険に加入していたので、安心して長期休診にすることができました。保険金は半年間給付になるので、とりあえず半年間、休診することにしました。

【わずか1週間後に旅行を強行・2019年9月19日】
 それほど大変な体だったのに、わずか7日後に飛行機に乗って東京へ行きました。
東京での学会ではA医師が参加されるので、聴診をしてさしあげますよというので診てもらいたかったのと、学会の前に当時東京に住んでいた次女と遊びに軽井沢などへ行く予定をしていたので、頑張って遊びに行きたかったのです。激しく息切れするような体で、しかも軽度とはいえ息苦しさがある状態だと、医学知識のない人なら心配で絶対に旅行をキャンセルするでしょう。しかし、酸素飽和度は98とか99あり、いくら気管支が狭くなっていても肺活量が多く、1秒量は年齢の割に多く、肺年齢はマイナス15歳の45歳であることなどから、酸素は十分運べているということや、喘鳴などで苦しいことはないので旅行は問題ないと判断しました。
息切れというのは、酸素不足にならないように酸素を多く消費しないようにしなさいという体の警告なので、息切れ自体は問題ないのです。おかげで楽しく簗場で鮎を食べたり、軽井沢で鯉料理を堪能したりできました。もっとも、駅や空港で歩くのは大変でした。さすがに横川の鉄道文化村はやめました。(目の前素通りしました)軽井沢から東京への電車移動で、上野と秋葉原で乗り換えして浅草橋のホテルへ行きましたが、秋葉原駅ではエレベータの場所が遠く、それよりはすぐそばの階段を歩いて上がって山手線から総武線へ乗り換えることにしたのですが、荷物持って階段上がるのは、激しく息切れしてとてもつらく、何度も何度も休みながらでした。浅草橋の駅からホテルまでの300メートルも、何度も休みながら歩きました。秋葉からタクシーにすれば良かったです。その晩の信濃町でのタバコフリー学会の総会には参加しましたが、翌日の学術大会の日は倦怠感が強く、ホテルで寝ていました。倦怠感が強かったのは「気管支が狭くなって酸素を十分取り込めない恐れがあるので寝ていなさい」という、体が発する警告なのでしょう。でも、夕方にはある程度元気になって、懇親会には参加しました。今思うと、本当に良く行ったと思います。学会の際、A医師に聴診してもらうと「呼吸音は聞こえます。本当にひどいと聞こえないです」と言われ、少し安心しました。帰宅した9月23日はそれまでよりも咳が多く出るようになりました。治療が効いてきた証拠なのかも知れません。でも、胸と背中がとても痛かったです。翌日の24日には息苦しさはなくなりました。ただ、深呼吸すると抵抗感(ストローで息を吸うような感じ)はまだありました。29日にはさらに咳が増えたのですが、しかし、息苦しさは完全になくなり、楽になりました。A医師から「ステロイドを飲み始めて2週間で楽になりますよ」と聞いていましたが、まさにその通り、ぴったり2週間でした。(胸痛などはまだ残っていたし、息切れもまだ強いので、完全に楽になったわけではなかったのですが)

【息切れ】
 息切れというものは、健常者であっても階段を登ったり、走るなどの運動で起こりますから、どういうものなのかは誰しもわかるでしょう。呼吸器疾患や心疾患などで息切れするのは、それが強く起こるのだというのも簡単に想像できるでしょう。でも、食事や入浴、排便でも息切れが起こるとは知りませんでした。入浴や排便はまだ理解できますが、食事で息切れするなんて、不思議です。消化管が激しく運動して息切れするのか? 食事は有酸素運動なのか。
なので、しばらくは腹八分目にして、なるべく強く息切れが起こらないようにしました。入浴も、最初の1か月は、入浴後には強い息切れが辛くて横に伏せてハアハア言ってました。数分で起き上がれるくらいには回復しますが。(起坐呼吸と反対?)
2か月目以降は横になるほどではないものの、しばらくは入浴後にハアハア言ってました。洗車はめちゃくちゃ息切れするのですが、体を洗うのも息切れするのです。 バブルバスに浸かるだけが良かったのか。

【内服ステロイド
 最初に内服ステロイドプレドニン)を処方していただいたときは1日 20㎎でした。1週間後に15㎎に減らしたのですが、減らして2日後に息切れや胸痛等が強くなったので、元の量に戻していただけないかとM医師に相談したところ、2週間25㎎に増量していただけました。
さすがに25㎎服用すると、5日後には、はっきりムーンフェイスが出ました。
(すでに最初の10日間で、自分ではわかる程度のムーンフェイスが出ていました)
その後1か月間20㎎、その次は2週間15㎎、その次は10㎎に減量という処方になりました。しかし、この20➝15➝10が、私の病態にとって早すぎたのか、後述しますが、12月初めに大牟田で友人とビール飲んだあと、博多のホテルに戻ってから胸部絞扼感などで2時間ほど辛かったです。
でも、せっかく10㎎まで減らしたので、また15㎎に戻すのには抵抗を感じ、10㎎の服用を続けました。それは結局失敗だったかも知れず、これも後述しますが、1月に胸部絞扼感や鎖骨の下あたりや肩甲骨のあたり、耳の横などが痛くなりました。
やはりまた15㎎に戻すべきかと思いましたが、M先生はそれに否定的で、鎮痛剤などで様子を見てはということで、4か月間、10㎎服用を続け、症状が落ち着いたことを確認した2020年3月12日から7.5㎎に減らすことにしました。ただ、いきなり7.5㎎にするのは不安があり、10日間8.75㎎にしてから7.5㎎にしました。
さらに4月21日には6.25㎎、5月2日には5㎎まで減らしたのですが、またも減量が早かったのか、あるいはPM2.5の高い日が多かったせいか、700L/minほどあったピークフローが620くらいまで下がってしまったので、6月27日から10㎎に戻しました。今度は当分減らさないようにと考え、5か月ちょっと、10㎎を続け、2020年12月9日から7.5㎎にしました。1年以上、ステロイドを飲み続けるとは想像していませんでした。(現在は服用3年目)

【シムビコート吸入】
 シムビコートという、ステロイドと気管支拡張剤(β2刺激薬)の合剤である吸入薬は、基本は1日2回で、適宜回数を増やすのですが、A医師から、1日8回まで増やして良いと聞きました。しかし、増やしても効果を実感できません。2011年にM先生に処方していただいたときも全く効かなかったので、自分には効かないのだろうか、あるいは吸入時にむせるので気管支まで届いてないのか、それとも基本的吸入法が間違っているのだろうかと疑問に思い、2019年9月21日に東京の学会会場でA医師にお会いした際、私がいつもやっている吸入を実演してみました。やはり吸い方が悪かったのです。吸ってすぐに声を出してはいけなく、数秒は息を止めることが大事だとか。これを指摘してもらっただけでも、頑張って東京へ行った甲斐があると思います。薬の添付文書でも、それほど詳しく吸入方法が書かれていません。喘息学会のサイトに詳しく載っているのを発見したのはその1年もあとでした。

【去痰】
 A医師から「痰を出すように」と言われたのですが、痰は出てないと返事すると、自覚がないだけで実際は痰は溜まっているとのことでした。てっきり、ひどく風邪をひいたときに口から出る黄色い痰を想像したのですが、知らずに気管から喉に出て飲み込んでいるようです。M先生に相談すると、やはり痰は溜まっているはずで、去痰剤を飲んでも良いけど、喘息が改善されれば自然と痰は減るから、必ずしも去痰剤は必要ないとのことでした。そこで「小青竜湯を飲んでも良いですか?」と尋ねたらOKということで、1か月くらい飲んでみました。

【すぐに2回目の旅行・2019年10月2日】
 呼吸困難が起こった1週間後に軽井沢と東京へ行ったわけですが、帰ってからわずか10日後に、またも飛行機に乗って関西へ行きました。本当はキャンセルしたいところでしたが、神戸と大阪で講演をするので頑張って行きました。ちなみに、そのインターバルの10日間のとき、畑のピーマンやナスなどを収穫するのは息切れして辛くて家内にやってもらったほど、ちょっと体を動かすだけで息切れして、さらに胸痛(胸部絞扼感)がするような体でした。
神戸空港に飛行機が着き、ボーディングブリッジを歩くわけですが、飛行機は小さい機体(B737)なので、ボーディングブリッジは登坂になります。わずかな上り坂なのに激しく息切れし、途中で休みながら歩きました。途中に椅子があれば良いのにと思いました。空港ビル出口で友人が車で迎えに来てくれましたが、そこに行くまで何度休んだか。 ようやくたどり着いた神戸の友人宅では3泊させていただきました。
2日目と3日目の午後に講演がありましたが、午前は友人宅で寝ていて英気を養いました。神戸講演が終わり、三宮からJRに乗り、友人宅最寄りの摂津本山駅で降りるところ、つい、吹田スタジアム最寄りの千里丘駅まで行ってしまいました。千里丘では大胆にもガンバサポに声をかけてタクシー相乗りでスタジアムへ行きました。(その時の体では観戦は無理だろうと9割がた諦めていたんですが)ところがスタジアムの手前でタクシーを降ろされ、上り坂を歩く羽目に。それならキックオフに間に合わなくても阪急山田駅からシャトルバスにするんだった。いや、初めから来ない方が良かったか。おまけに試合はコンサドーレのぼろ負け。

【咳が止まる】
 喘息治療を開始したら、一時的にかえって咳が多くなったと前述しましたが、1か月後の10月中旬、急に咳が出なくなりました。ステロイド治療の効果の他、小青竜湯を飲んだのも良かったのかも知れません。24時間、1粒たりとものど飴を口に含まないで済むのは、28年ぶりの快挙ではないかと思います。これは嬉しかったです。

【3回目の旅行・2019年10月17日】   呼吸困難が起こった1週間後と3週間後に無謀な(?)道外旅行したわけですが、さらに5週間後に7泊8日の九州旅行をやってのけたのです。(野焼きのシーズンなので、それを避けるためにもともと休みを沢山とってました)奄美と宮崎、都城の3か所で講演をするのと、熊本でのカントリー野外コンサートの日程に合わせるため、毎日宿泊場所が違うという超過密日程でしたが、各地で美味しいものを食べることもでき、行って良かったです。
https://www.consadole.net/kamome/monthly/202001?page=2
ただ、旭川空港から羽田経由で鹿児島空港へ行く際、四国上空で息苦しくなってきて不安になりましたが、まもなく高度を下げて気圧が上がって息苦しさは解消して、大事には至りませんでした。でも、奄美での講演会場はエレベータのない4階だったので辛かったです。帰りの福岡から千歳までの飛行機は大丈夫でした。

【すぐさま東京へ・2019年10月25日】
 九州旅行から帰った、たった2日後に東京(埼玉)へ行ったのです。いくら何でもそれは・・ と、かなり躊躇しました。
しかも、喘息が悪化してからの計画です。でも、コンサドーレルヴァンカップの決勝に出るなんて、一生に一度かもしれないし、這ってでも行かねばあとあとまで後悔すると思って行きました。旭川から長女と飛行機に乗り、東京で次女と合流して3人で行きました。川崎相手に負けて準優勝でしたが行って良かったです。2泊3日で特に問題なく帰宅しましたた。

【またもや東京へ・2019年11月1日】
 喘息がひどくなって1か月半の間に4回も道外旅行したわけですが、それでもまだ終わりません。ルヴァンカップから帰宅した5日後に某学会のため東京へ行きました。今になって思うとびっくりです。信じがたいけど日記を見ると本当にそうなってます。当時東十条に住んでいた次女と軽井沢(アウトレット)へ行き、温泉旅館宿泊。翌日は富岡製糸場の見学をして、夕方から東京で会議。次の日は学術総会。翌日、飛行機で旭川へ戻り、自宅で車の冬タイヤの交換をして浜頓別まで行って宿泊。(学会の会長が浜頓別で診療しているので同行した次第です)6日目にへとへとになって帰りました。緊張の連続で過敏性腸症候群による下痢のおまけまでありました。
伊能忠敬は喘息の体で全国を測量したそうだし、呼吸困難がないのならいつまでも安静にしていることはないと思いますが、でもちょっとハード過ぎますよね。このあと3週間はどこへも行ってません。(たったの3週間かって?)

【次は再度九州へ・2019年11月29日】
 喘息がひどくなって2か月半後に6回目の道外旅行をしました。大分で講演してほしいと教職員組合さんから呼ばれていたので、鳥栖でのコンサドーレの試合日程に合わせて行くことにしていたのです。喘息悪化前に決めていました。さらに長崎追加公演のおまけまでありました。博多2泊、大分1泊、鳥栖2泊の6日間、家内と旅をしました。 九州に着いた2日目に乗り鉄西鉄全線乗りました)のあと、大牟田の友人と食事したのですが、久しぶりに飲んだビールがたたったのか、博多のホテルに戻ったら胸部絞扼感が強くて2時間ほど辛かったです。ステロイド内服を1日15㎎から10㎎に減らして14日目だったので、その影響もあるかも知れません。それでそのときはプレドニン5㎎と柴陥湯を追加服用するのと、緊急時に備えて持参していたプロカテロール錠を飲みました。そんなことがあったものの、またも九州で美味しいものを食べ、サッカーも堪能でき、楽しい旅でした。ただ、帰宅後、しばらくすると今度は耳の近くが痛くなりました。関連痛なのでしょう。

マクロライド長期少量療法とシングレア】
 A医師から、マクロライド長期少量療法を勧められ、クラリスロマイシンが余っていたので2019年10月から12月にかけて2か月ほど服用してみました。これが効いたかどうか、実感することはできなかったものの、一定の効果があったと信じています。さらに継続するかどうか悩みましたが、同じ薬を飲み続けることに抵抗を感じ、その後はシングレア(モンテルカスト)を1か月ほど服用しました。

【スピリーバ(抗コリン薬)処方】
 2019年11~12月の九州旅行の前の受診の際、M先生は「スピリーバを吸入したことある?」と言いました。(経験ありませんでした)でも、そのときは尋ねただけで終わりました。九州旅行で辛い日もあったので、旅行から帰って最初の受診日に私のリクエストでスピリーバを処方していただきました。これは良く効きました。

【2020年1月の不調】
 1月中旬に、朝食後に強く胸部絞扼感が出て、食後15分くらいから10~20分間くらい辛いことが10日くらい続きました。かなり辛かったですが、家内に肩をもんでもらうなどで少し楽になりました。なるべく症状が強くならないよう、朝食の量を減らしました。内服ステロイドプレドニン1日10㎎)を増量すべきだったかも知れませんが、せっかく減らしたのをまた増やすのは避けたかったので、柴陥湯・吸入ステロイド・スピリーバの量(回数)を増やしたり、プロカテロールを服用するなどで様子をみました。1月末から旅行に行くのに、このままでは困ると心配しましたが、下旬にはほぼ解消できました。ただ、鎖骨の下あたりや耳の近くの圧痛は2~3か月続きました。

【プロカテロール錠】
 短時間作用性気管支拡張剤 (SABA)で、メプチンの名前で知られています。同じSABAであるサルタノール吸入薬を20年くらい前に使って効かなかったのですが、試しに錠剤を飲んでみると、ある程度効くようです。テオフィリンのような動悸が起こることはありませんが、手足がつる副作用があるので、普段はあまり飲みませんが、調子の悪いときに飲むようにしています。
こればっかりに頼ってステロイドをやめる(減らす)のは危険(最悪の場合、命にかかわる)なので気を付けながら服用しています。

ピークフローメーター
 2020年1月にA医師から、ピークフローメーターを買って毎日自分で計ってみると良いと言われました。安いものでは3000円くらいと、お手頃価格なので買おうと思いました。調べてみると1万6千円くらいで1秒量も計れるのがあるので、そちらにしました。さすがに1秒率も計れるのは9万円からなので手が出なかったです。
毎日測定してグラフ用紙に数値を記入するのは楽しい日課になりました。1秒量が計れると、肺年齢が計算できます。喘息がひどくなったときはマイナス15歳の45歳でした。呼吸困難で大変なときにマイナス15歳というのはどうなんだろうとは思いますが。(肺活量が多いので、気管支が細くなっていても1秒量が多く、肺年齢が低い計算になるのです)やがて肺年齢が29歳まで下がったときは嬉しかったです。
ただ、測定するたびに数値の変動が大きく、機器の精度に問題があるような気がして、もう少し値段が高くても、良い器械がないか探してみました。一生懸命インターネットで探すと、サンフランシスコにあるWishという通販会社から1万円ほどで1秒率も測定できるピークフローメーターを2020年9月に買いました。上手く測定値が出ないこともありますが、大きな故障はなく、ほぼ毎日使っています。PM2.5が高いときなど、数値が下がるので、そのような時は薬を増やしたり、中止していた薬を再開するなどしています。

【2020年1月~2月の伊豆旅行】
 国会図書館で調べ物をする以外、特段用事はなかったのですが、次女が3月いっぱいで東京から札幌に転勤になるので、最後の訪問ということで東京へ行き、伊豆旅行もしました。伊豆では温泉やグルメ(伊勢海老・金目鯛・アワビなど)を堪能し、メトロロマンスカーや引退間際の185系電車(踊り子号)に乗るなど、楽しかったです。この頃には空港や駅などで息切れして歩くのが辛いということはなかったです。もちろん歩きはゆっくりで、しばしば休みながらではありました。

新型コロナウイルスの影響】
 2020年2月にはだんだん国内で新型コロナウイルス感染者が見つかってきていました。前述の伊豆旅行でも、最終日の東京のホテルでは、エレベーターに乗ったら中国語を話す親子4人と一緒になり、父親は咳をするし、子どもは鼻をすすっていたので生きた心地がしませんでしたが、きっと台湾人だろうと思うことにしました。幸いその後、何ともなかったです。
また、3月7日には沖縄で講演をするため、家族親類5人で沖縄旅行をする予定でしたが、新型コロナの流行が始まってJリーグも中断する事態になり、残念なことに旅行はドタキャンになりました。(航空券はキャンセル料なしで払い戻していただけました。そんなコロナ禍になり、M先生の診察は延期になり、リモート処方ということになりました。そこで買ったばかりのピークフローメータが大いに役立ちました。
ただ、レントゲンでは喘息に関しては問題なかったものの、一部に影があって「年に一度はレントゲン撮ってみましょう」ということでしたが、これも延期になりました。
でも、2年くらいたった2021年8月に撮影していただき、影の大きさ等は不変であることを確認し、安心しました。

【薬のさらなる減量】
 2021年2月、額にニキビが多発しました。61歳で少しくらいニキビが出ても不思議でないと思いますが、数が多く、これは変だと思いました。また、少々女性化乳房になっているような気がするのです。
いずれもステロイドの影響ではないかという気がして、1日7.5㎎服用しているプレドニンを、さらに減らそうと考え、2021年5月23日から6.25㎎、8月26日から5㎎に減らしました。
また、シムビコートは効果を実感できないので、思い切って2021年5月から中止しました。中止してもピークフローや1秒量の数値は下がらなかったので、8月1日にはにスピリーバも一旦中止しました。
ただ、8月はPM2.5が高い日が多く、少しピークフローと1秒量が低下したので、同月末からスピリーバを再開しましたが、本来は1日2吸入のところ、1吸入だけにしています。